- 「形見さんの過激」
形見さんとは挨拶程度の間柄だった。込み入ったデザインの話などしたことがない。
しかしずっと気になるデザイナーだった。
インテリアデザインの世界で僕より一回り下の世代は層が厚く、デザイン傾向も90年代はポストバブルといっていいような特徴があった。姿かたち先行のハイデザインは意識的に遠ざけ(というか不況のまっただ中でそんなデザインは断罪された)、斬新さの代わりに、食堂なら食堂のその場の空気感が重視された。形見さんはそうした時代に独立し、1997年にバワリーキッチンをデザインした。この店は今に続く日本のカフェブームをけん引し、ユルい店舗デザイン傾向のシンボルとなった。
しかし、本当にそうなのだろうか。カッコいいカフェの元祖の顔だけなのだろうか。改めてバワリーキッチンを犬のような眼で即物的に観察してみた。
総じて断片的。アナーキーな雑然さ。デザインにつきまとう意図がはぐらかされる。なのに何事かの事態が過剰に露出する(電気配線の束、無造作に壁にくっ付く分電盤とその横に取って付けたような薄っぺらのステンレススイッチボックス、テーブル脚の十字プレートに不必要に巻き付く赤いカバー、トイレット内の鏡の裏を利用したトイレットペーパーストックの放置露出、、、)。断片が断片として意図的に処理される(ように見える)。一方で厳密すぎる厨房の計画。店内のパフォーマンス=意匠がそこに集中する。練られた配膳サービス動線を通行するムウムウを着たウェートレス、レプリカントのよう、、、。
脱力してユルいのに、過剰で異様なのだ。街の「様子」と溶け合うような食堂の「様子」を形見さんがデザインしたのは間違いない。だけれども僕がずっと気になるのは、バワリーキッチンのデザインの後ろにたたずんでいるこのような、奇妙な過激さだ。それはステレオタイプな「カフェ」や「ユルさ」の後ろで、もしかしたら形見さんが密かに企んでいたデザインの作法なのかもしれないとすら思う。
建築アカデミズムに少し席を置いていた経験でいうと、同じ空間デザインでも建築とインテリアデザインは近くて遠い。インテリアデザイナー形見さんのデザインは、建築の場では多分説明できない。しかし形見さんの過激さは、建築の場がゆくゆくは抱え込まざるをえない「その場の経験によって生成される空間のリアル」という過激さなのだと思う。生前の形見さんは教育にも気持ちを向けていたと聞く。残念でならない。
飯島直樹デザイン室
代表 飯島直樹
kata 形見一郎のデザイン1996-2016 / 六耀社 / 2016.09